. Don't Be Afraid of Ethics by Prof. Hans Kueng in Japanese |
ハンス・キュング
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「彼は倫理が恐いのだろうか?」 つい最近、 私の親しい友人であるパリ在住の政治学者アルフレッド・グロッサーが、私の耳元でこう囁いた。バーデン・バーデンで行われたテレビ放映討論の場で起きたことで、発言者は勇敢にも当面の問題に関して倫理は無用とばかりに退けたのである。私は、世界人間責任宣言1 の提言に寄せられた反論を読んだ時にも、同じ事を感じた。元国家元首および政府首班の集まりであるインターアクション・カウンシル(通称OBサミット)の「学術顧問」の一人として、私はこの宣言の第一次草案の起草のみならず、異なる大陸、宗教、そして分野から寄せられた数多くの訂正、修正を組み入れる責任も担った。従って私はこの宣言については全面的に賛同するものである。しかしもし私がこの問題について長年こだわってこなかったら、またもしこの主題に関して生じるあらゆる問題への対処を扱った「グローバルな政治とグローバルな経済にはグローバルな倫理を」という著書(1997年出版)を書き上げていなかったら、私は第一次草案の起草をするという僭越なことなど考えもしなかったろう。草案は1948年の人権宣言と1993年のグローバル倫理宣言と密接に関連している。後者は世界宗教会議が採択したもので、世俗的な政治的継続性を要請している。こうした宣言の裏には極めてナイーブな精神があると決めてかかる人々がいるが、「まったくそれは違う」とその人たちに申上げたい。 I. グローバリゼーションはグローバルな倫理を必要とする 1. インターアクション・カウンシル(IAC)の宣言は他と無関係な孤立した文書ではない。同宣言は、グローバルな倫理基準を緊急に呼びかけている重要な諸国際機関の要請に応えるもので、現在のところこのことは国連世界統治委員会(1995年)と世界文化および開発委員会(1995年)の報告書の中で表明されている。同じ主題はダボスで開催される世界経済フォーラム(WEF)でも長年討議されており、また新しいユネスコの普遍的倫理プロジェクトでも取り上げている。アジアでも次第にこの問題への関心が高まってきた。2 これらの諸国際機関や宗教間組織で近年こうした質問を発するようになった背景には、経済、テクノロジー、そしてメディアのグローバリゼーションによって個々の問題(金融から労働市場、エコロジー、組織犯罪まで)もグローバル化してしまったという事実がある。これらの問題にグローバルな解決があるとすれば、倫理のグローバリゼーションも要請されるのである。それは画一的な倫理システムではなく、全ての地域、国家、関係団体が殉ずることの出来る必要最低限の共通の倫理価値、基本的態度、そして基準である。言い換えると、人類に共通の基本的倫理が必要とされているということである。世界倫理がない限り、新しい世界秩序というものはありえないのである。 3.これらはすべて「取り越し苦労」的な分析ではなく、社会の現実的分析に基づいている。批判的な人々は、いくつかの隔離された言辞、特にヘルムート・シュミットがディー・ツァイト紙に掲載した人間の責任宣言の紹介記事を引用し、そこから二重の非難を構築している。 (a)宣言の基礎にある社会分析は、全く否定的で暗く、衰退を目指すものである。 (b)こうした「社会に対する暗い見方」は、共同体的義務を強化して個人の自由を補完しようとするキャンペーンに「潜在的に成功裏に」利用されるだろうというのである。個人的自由の成果を制限する方向にすべて動いていくのではないかという非難に行きつく疑問である。そしてそれに対して、「道徳性の拒絶や衰退」など発見できなかったという調査結果がことさらに強調されるのである。あたかもシュミットがこうしたことを認めたかのようにである。あたかも彼が「取り越し苦労」にふけっているかのように、個人主義に烙印を押したかのように、そして価値の衰退を嘆いているかのようにである。そうではなくてシュミットは世界中で長年にわたって目撃され苦情を言われてきたグローバリゼーションの過程における危険な要素を冷静かつ現実的な方法で示して見せたのである。特に人間責任宣言に関するシュミットの呼びかけは、少なくとも原則として「責任」、「道徳性」、そして「共通の善を目指すこと」を肯定する若い世代もいることが前提となっている。しかしいずれにせよ、30年以上にわたって個人の権利の拡大と強化の後、私たちが教育、ジャーナリズム、そして政治について棚卸しをする必要があることは誰もまともに否定することができないだろう。なぜなら:
4.冷静な現状診断によれば、現代社会の過激な個人主義化、加速された世俗化、そしてイデオロギー的多元主義は、単に否定的な進展でも(故にカソリックの階級制度)、また単に肯定的な進展(故に時代遅れの近代啓蒙主義の代表者)でもなく、きわめて相反する要素を内包した構造的変化であるということである。これによって多くの機会や利点がもたらされる反面、非常なリスクと危険ももたらされる。こうした革命的変化の中で、価値基準と基盤の方向性に関し新たな疑問が生じる。これは「時計の針を逆戻りさせる」ことを意味するのではなく、「時代の兆候」を認識することなのである。マリオン・ドンホフ(ツァイト紙の発行人)が言うように、「勿論自律的な個人がいなければ、多元的民主主義は考えられない。だから解放と世俗化に背を向けるなどということは論外であり、それ以上に不可能である。私たちがなすべきことは、より大きな責任に目覚めるよう市民を教育することであり、さらに連帯感を持たせることである。多面的な誘惑と魅力を持つ現在の社会にあって、基本的な道徳性、規範、そして人々を結ぶ価値を求める気持ちはきわめて強いものがある。このことを考慮に入れなければ、私たちの社会は続かないだろう。」3 ラルフ・ダーレンドルフにとり、「法と秩序」は失業や福祉国家とともに「私たちの時代の最も重要な問題」であり、それについて以下のように述べている。「無法状態は近代という時代の天罰である。所属感が消え、それに伴って堅固な社会が個人に与え、個人も当然のものとして受け取っていた支持も失われた。なぜ既存の規則や法律を守らなければならないか、を示唆するものはほとんどない。警察による統制に頼ろうとすれば、権威主義、悪くすれば全体主義という代価を支払わなければならなくなる。何が現代社会をまとめうるのだろうか?4 事実、何が社会をまとめうるのかという質問は、ポスト近代の今日、より先鋭なものとなっている。ポスト近代性は画期的な新しいパラダイムであって、単なる「第二の近代性」ではない。何故ならば、
それでは、なにがポスト近代の社会をまとめうるのだろうか。それは確かに、聖書的なプロテスタントやローマ・カトリック的な宗教原理主義ではない。人間の責任宣言のなかには、「出産抑制、堕胎、安楽死」等の教会や宗教間で合意に達せられない言葉は一切ない。社会は 無関心主義、消費主義、快楽主義が近代後の将来のヴィジョンであるとわれわれに押しつけたがる不真面目な多元主義によってまとまるものでもない。最終的に社会を繋ぎ止める唯一のものは、共有される価値観と基準に関する新たな基本的社会合意なのである。そしてこれは、連帯における責任を自律的な自己達成と、そして権利を義務と組み合わせるものである。そこで、かなり異なる社会グループが支持しうる倫理を怖れる必要はないのである。われわれが必要としているものは、道義的態度としての道徳性に対する「イエス」であり、特定の道義的立場(例えば性的なもの)に関してかたくなに一方的に主張するような道徳性に対する断固たる「ノー」なのである。 II.人間の責任は人権を強化する 新たな諸問題と人間の責任という時機を得た概念に驚いたであろう個々の人権活動家達は責任宣言の提言に当初困惑的に反応した。ここで私は、悲嘆主義者や破壊的シナリオで世界のあらゆる問題を単一の見識に押し込もうとする単一主義者達(例えば本質的には正当化されうる生態学的見識、あるいはそれが世界の全ての問題の要約と解決であるとみなす単一的な見識)のことを言っているのではない。また私は人間の責任宣言が社会的現実と人間の生活の多くの段階、多くの次元を真剣に考慮しているのとは異なり、一次元的な、往々にして世界を単一原因に帰そうとする見解(例えばカール・エミリーの生物圏的見識)を誰にでも押し付けようとする人々のことを言っているのでもない。むしろ、私は、アムネスティ・インターナショナルのドイツ事務局長であるフォルクマー・デイレのように高邁な議論を展開する人々のことをいっているのである。彼は原則的には「全ての宗教、国家、利益グループがコミットできる必要最低限の共通倫理価値、基本的態度および基準」を認めているが、人間の責任宣言には疑念を表している。こうした疑念は最終的には同意できないとしても私にとっては考慮に値する。その主な理由は、人間の責任宣言が絶対に人権宣言を損なうものではないからである。国連の諸委員会やその他の国際機関は、同じ見解を表明している。8 人間の責任を考えることは、人権の実現に打撃を与えるものではない。逆に、これは人権を推進させることである。より詳細に見てみよう。 人間の責任に関する宣言は、同宣言の序文にあるように、倫理的見解から人権宣言を支持し、強化するのである。「かくて我ら世界の人々は、すでに世界人権宣言が宣明している制約、すなわちあらゆる人々の尊厳、かれらの不可侵な自由と平等および彼ら相互の連帯の全面的認容を、改めて確認し強化するものである。」 もしも多くの地域で人権が実現されないとすれば、そのほとんどは政治的、倫理的意志が欠落しているからである。「法の統制と人権の推進は、男女共に公正な行動をとろうとする意志に依存しているのである」という事実に関する論争はない。人権のために戦う人々もこれに反論はしていない。 3.もちろん人権の法的正当性が責任の実現にかかっていると思うことは過ちである。「人権は、人間としての善行に対する報償である」などというナンセンスを誰が主張するだろうか?これは実際、社会に対する義務を果たすことにより権利に値することを立証した者のみが権利を入手することを意味している。これはあきらかに、無条件な人間の尊厳を損なう。人間の尊厳自身、権利と責任を前提としている。特定の人間としての責任を個人ないし社会が履行しなければ、人権を主張できないなどとは誰も言ってない。人権とは、人間に天与の価値であるが、その人間は同時に常に権利と責任を与えられているのである。「すべての人権はその定義により権利を遵守する責任に直接的に拘束されている。」(V.デイル)確かに、権利と責任はうまく識別できるが、相互から分離されえないものなのである。両者の関係は識別して説明する必要がある。これらは、足したり引いたりできる量的なものではなく、個人と社会の領域における人間の二つの関連する次元なのである。 4.責任なくて権利なし。このように、この問題は決して新しいものではなく、「人権の創設期」にまでさかのぼる。人権宣言を公布するのなら人間の責任宣言と組み合わさなければならない、と1789年のフランス革命議会における人権に関する討論のなかでも主張された--さもなくば、究極的には誰もが権利しかもたず、互いにその次元で競い合い、それなしには権利が機能しえない責任について皆が無知になってしまう、と。そしてこの偉大な革命の200年後のわれわれはどうなのだろうか。われわれはほとんど、実際自らに所属するいかなる責任も認めずに、他人に対する自己の権利をあまりにも頻繁に主張する社会に住んでいる。これは確かに条文化された人権そのもののせいではなく、それに密接に関連した特定の虚偽の普及が原因なのである。この現実は多くの人々の意識において、責任よりも権利を優越させてしまった。懸命に獲得すべき人権の文化の代わりに、人権の意図を無視した権利を過大に主張するという非文化が往々にしてみられる。「自由、平等、参加の均衡」は、単に存在するものではなく、幾度となく新たに実現されなければならないのである。なぜならば、われわれは間違いなく「主張の社会」に住んでおり、こうした社会は往々にして「法的主張の社会」、あるいは実際には「法的紛争の社会」として姿を現しているからである。これは、国家を「司法国家」にしている。(法律歴史家、S・シモンがドイツ連邦共和国に適用した用語)9 これは責任に対する新たな専念の必要性を、とくに権利に対する正当化された主張を伴う我々の過大に発展した立憲国家において、示唆していないだろうか。 デイレが「世界にあまねく人権の7つの侵害の現実」と称するものは、とりわけ無条件に人権を弁護したがる職業的な人権保護者に対して次ぎの点を明瞭にしているのではないだろうか。すなわち、人々とりわけ権力のある人々が人道的な責任を無視し(「私にとって何のかかわりがあるのか?)、軽んじ(「私は私の会社の利益のみを代表しなければならない」)、理解できず(「そのために教会やチャリティがあるのだ」)、あるいは単に遂行しているかのごとく虚偽のかっこをつける(「我々政府、役員会はできる限りのことをしている。」)ことからくる空白状態から人権宣言およびその説明がいかに敵対されているかということである。「人権の弱点は、人権という概念自体にあるのではなく、それを実現する責任を担うべき人々の政治的決意の欠如にある」(V。デイル)(私はそれに道徳的決意を加える。)これをわかりやすく表現すると、人権の効果的な実現のためには倫理的推進力と規範の動機が必要とされるということである。世界で活躍する人権擁護者で「普遍的倫理」に賛成する人々はすでにこれに同意している。従って、人権問題と効果的に取り組みたい人々は、新たな道徳的推進力と倫理的方向付けの枠組みを歓迎すべきであり、自らの不利につながるような拒否をすべきではない。 6.「特定の領域についてのみ何が命じられ、何が禁じられるかを明確に言明している」人間の責任宣言の倫理的方向付けの枠組みは、ある面で人権を超えるものである(V・デイレ)。また人権宣言は、こうした包括的な道徳的主張を明白に提起していない。人間の責任宣言は遙かに広い範囲に及ばなければならず、より深い所から出発しなければならない。そして事実、人間の責任宣言の二つの原則は包括的であると共に根本的な日常生活における倫理的方向付けをすでに与えてくれている。すなわち、「すべての人は人間的な扱いを受けるべきである」という基本的要求と、「自分にされたくないことは、他人にしてはならない」という黄金則である。 責任宣言が具体的に要請する真実性、非暴力、公正性、連帯、パートナーシップ、その他は言うまでもない。道徳的に許されることと許されないことについて、人権宣言が触れえなかったのに対し、人間の責任宣言は---法としてではなく道徳的義務として---明言している。 したがって人間の責任宣言は、「何が正しく何が間違っているか、何が許され何が禁じられるかについての合意、民主的な合意の可能性を開く。これらの重要な質問について関心を持つ責任は、個人に帰する。したがってこの責任とは家父長主義的なものではなく、政治的なものである。「それ以外の何でありえようか?」11 人権宣言は(保護されるべき)個人よりも(権力を制限されるべき)国家に焦点を置いているため、概ね「匿名性の上に」成立したが、人間の責任宣言は国家や組織に対しても呼びかけるが、主としてそして極めて直接的に責任ある個人に呼びかけるものである。宣言は繰り返し「あらゆる人々」、「すべての人」と言っている。無論私たちの社会の中で特に責任のある特定の職業的の人々(政治家、官僚、ビジネス界の指導者、作家、芸術家、医師、弁護士、ジャーナリスト、宗教指導者)は明示的に呼びかけられているが、誰かが特に対象として選び出されているわけではない。このような責任宣言は無秩序な多元主義の時代にあっては一つの挑戦的課題となろう。少なくとも個人主義化の過程において他者の犠牲の上に「勝者」となった者や、「面白ければ」あるいは「自分の個人的発展に利するのであれば」を唯一の道徳的規範としている者にとっては、一つの挑戦であろう。しかし同宣言は、批判を浴びているアミタイ・エツィオーニを中心とする共同体主義者たちの「共同体イデオロギー」に関わるものではない。しかし少なくともこれらの人々は、「共同精神の専制政治」を打ち立てて、人々を個人的責任からも解放することを望んでいるわけではない。これは表面的には彼らの道徳的対局にいる人々、現在の危機について致命的な誤りを犯し、「利己的社会の告白」あるいは「方向付けや絆を持たない美徳」を未来への道として喧伝しなければならないと考えている人々が行っていることである。 このように人間の責任宣言は、人権宣言と同様に先ず第一に道徳的アピールなのである。したがって国際法のように直接的拘束性を持つものではなく、すべての人々に適用される集団的・個人的振る舞いの基本的な規範を世界の公衆に対して宣言するものなのである。勿論、このアピールは法的および政治的実践に対しても効果を発揮することを期待されている。しかし法的な道徳性を目指そうとするものではまったくない。責任宣言はほのめかされているように、「世界規模で適用される法的拘束性を持つ責任の法典のための青写真」などではない。法王やカソリック教皇庁組織でさえ自らの領域で(外部世界ではなおさら)その法的な権威主義的道徳観を実践できない今の時代に、こうした亡霊を呼び起こすべきではない。人間の責任宣言の中心的な特徴は、成文法化を目指さないことを明確にしていることにある。いずれにしろ真実性や公平性のような道徳的態度については、成文法化は不可能である。宣言は自発的に責任をとることを目指すものである。勿論、この種の宣言は個々ケースによっては、また諸機関に適用されるに際して法的規制に導くこともある。しかし人間の責任宣言は、法的拘束性ではなく道徳的拘束性を持つと言われるべきものである。
「責任」が誤用されることもあるが、「権利」もまたしかりである人権宣言についていかなる改訂も拒否する者(無論IACも拒否する)は、特に人間の責任宣言を支持すべきである。多くのアジア人の求める---儒教、ヒンズー教、仏教、イスラム教の伝統である---責任の承認を、アプリオリに権威主義的かつ家父長主義的であるとして貶めるのは、現実に対して盲目であり、欧州中心主義のごう慢である。責任という概念に対する攻撃が、往々にして政治的利害に支配されているのは明らかである。しかしそのことは、成金資本家や扇情的ジャーナリストによって自由が誤用されるからといって自由への希求が否定されるのではないのと同様、責任への要求の信用性一般を奪うものではない。独裁主義システムが特に人間の責任宣言に期待し、将来においてもその独裁主義システムを維持する上で責任宣言に依存する、と思うのは馬鹿げている。むしろ将来は、彼らの真実性と寛容性---これはいかなる人権にも含まれていない---を示す責任をめぐって以前よりも独裁主義システムに批判的に対峙できるようになるだろう。ポーランド、ドイツ民主主義共和国、チェコスロバキア、ソビエト連邦、フィリピン、南アフリカなどの独裁政権は、流血を見ずに倒されたが、それは「真実」、「自由」、「正義」、「連帯」、「人間性」---これらのスローガンは時に人権を超えた---への要求を伴う道徳的主張およびデモンストレーションによるところが少なくなかった。だから人権と人間責任は一緒に見られるべきものである。人間の責任宣言は、人権宣言と同様に多くの人にとって参照文書となりうるものであり、教育や学校におけるその意義は大である。
2.ドイツ人は特にこのことに関してもう一つの問題を抱えている。残念ながらドイツ人は、「duties」、 「obligations」、 「responsibilities」というニュアンスの異なる類義語を三つも持つ英米人のような幸運には恵まれず、「Pflicht」という用語一つで済まさなければならない。パリ(ユネスコ)でもウィーン(インターアクション・カウンシル)でも、またダボス(世界経済フォーラム)でもそのたびに専門家がいち早く「Pflicht」の訳語として「responsibilities」に賛同するのを見るのは興奮させるものがあった。何故か? なぜならresponsibilitiesという言葉は他の用語に比べ、外面的な法よりも内面的な責任をより強調するからであり、この内面的責任こそ、倫理を強制するものではない責任宣言の究極的目的だからである。もし「Verantwortlichkeit」が用語として承認されていたら、その方がより望ましかったかもしれないが、その場合は特定の隔離された状況でしか使用できなかったかもしれない。
3.ヨーロッパ人、特ドイツ人は、この「Pflicht」という言葉が義務という意味合いで近年の歴史の中で恥ずべき使われ方をしたことを忘れてはならないだろう。あらゆる類の全体主義、独裁主義、そして聖職政治イデオロギーが、(目上の者、ヒットラー総統、民族、党に対する、そして法王をも対象とする)「義務」を無理やりたたき込んだのである。こうしたことから懸念の投影(「独裁国家」、「家父長主義」…)としてこの言葉が道徳的に、そして究極的には言語的にもタブーとされてしまったことは理解しうる。しかしこうした悪用のために、キケロやアンブロシウス以来の長い歴史を持つ概念であり、近代の主要概念となり、かつ今日でも他に得難い言葉を肯定的に使うことを妨げられてよいのだろうか? だから私たちは倫理を怖れてはならないのである。責任は道徳的圧力を生じさせるものではあるが、強制するものではない。なぜならこれはその本来の性質として道徳的に行動することを自由に決意することができる人間を勇気づけ、促す倫理的理由に由来するもので、純粋に技術的あるいは経済的理由に由来するものではないからである。そして以下のことを忘れてはならない:
4.義務のみならず、権利も悪用されうる。特に、第一に、権利が常に自己の利益のためにのみ行使される場合、第二に、権利が常にその限界まで最大限に利用される場合に悪用されるのである。また自分の責任を怠る者は最終的には権利をも損なう。市民がその権利を有意義に行使せず、自己の利益のためにのみ利用すれば、国家でさえも危うくなる。アムネスティ・インターナショナルでさえも、倫理的に動機づけられた活動家ではなく、「権利にあぐらをかく」利己的な者によって運営・支持されていたら、存続することはできない。それゆえに私たちは誤った選択肢に注意すべきである。 (西洋の)解放する権利対(東洋の)奴隷化する責任。この構図に対してはきっぱりと反対を唱えるべきである。人権宣言を補強する責任宣言はこの面で、人権の普遍的正当性、分割不能性、そして結合力を損なうことなくそれを補足し、調停する機能を担うことができよう。また責任宣言は、無邪気な人々のみがもうすでに論駁されていると思いこんでいる「文明の衝突」を回避させる一助となろう。 私も自由を愛する者であり、基本的に自由とは強制の欠如であり、干渉を避けようという「否定的」目的を伴う、とイザイア・ベルリンが言ったのは勿論正しかった。すなわち、「何々からの自由」である。しかし、ケンブリッジ大学のイザイア・ベルリン講座の講師を勤めた者として、純粋な「何々からの自由」は、「何々への自由」なくしては破壊的になりえ、時に危険でさえあると申し添えたい。これに関して英国の社会学者、アンソニー・ギデンは、古の神学的英知を確認している。ここでいう自由とは、決して隷従に導かれてしまう「社会への奉仕」としての自由の行使を呼びかけているものではなく、むしろそれなくしては自由が放蕩となってしまう(そして究極的には自らのエゴのためのみに生きる人々が内面的に燃焼してしまう)責任における自由なのである。しかし、このような放蕩は、自らのの利益と日常生活の個人的美化を利己的に追求し、自らのニーズと快楽に役立つことのみを行う人々が劇的に増大するとたんに、社会問題となってしまう。政治新聞や週間誌ですらこのことを遅々としてはいるが、留意しはじめている。最近、「恥を知らない社会」とか「新たな無恥」といった記事が見られる。 我々は、心配する必要はない。道徳性と社会は義務として規定されえない。そして事実、平和の最善の保障は、法律の安全性を国民に保障することのできる国家なのである。ここでは、人権はそのような社会の「導く星」なのである。(爆発の仕掛けではない。)しかし、まさに道徳性と社会が規定されえないので、市民の個人的責任は不可欠なのである。我々が見てきたように、民主的国家とは価値観、基準、責任に関する合意に依存しているが、それもまさにこうした合意を創出したり規定しえずまたしてはならないからである。
8.人権に関心を持つ人々は、特に人権宣言自体その第29条に「すべての人間の社会に対する義務」が定義されていることを知るべきである。したがって、人間の責任宣言は人権宣言に絶対に矛盾しないと強力に論理づけられる。そしてもし、1960年代に国際合意を通じて政治的、社会的、文化的な人権の成文が具体的な形態で可能でありかつ必要であったなら、なぜ、これらの責任を拡大考案することにより第29条を発展させることが違法なのだろうか。逆にこの点を鑑みると、人権と人間の責任は社会にとって相互規制するものではなく、効果的に相互を補完するのである。そしてすべての人権擁護者達は、彼らの立場を補強するものとしてこの関係を認識すべきなのである。人権宣言の第29条が「社会の道徳性、公的秩序、全般的福利の公正なる要請」に言及していることは、偶然ではないのである。しかし権利と責任の関係を決定する非対称的な構造に留意しなければならない。
すべての責任が権利から派生するのではない決定的な問いは、その問いが表明されるか否かにかかわらず、権利を主張するに際して責任についても考える必要があるかどうかということである。その答えは、すべての権利には責任が伴うが、すべての責任が権利の所産ではない、ということである。ここに三つの例をあげよう。
2.上記から引き出せることは、権利は一定の責任を必然的に伴うものであり、この責任は法的責任であるということである。しかし決して全ての責任が権利から派生するのではない。私たちには、人間個人の尊厳に直接根ざす独自の倫理的責任というものがあるのである。この点に関して、非常に初期の神学論争においても二種類の責任が区別されている。一つは狭義の義務で、「完全なるもの」、すなわち法的義務である。もう一つは広義の責任で、良心、愛、人間性などに促される「未完成なもの」、すなわち倫理的責任である。これらは個人の洞察に基づくものであり、法によって国家が強いることはできないものである。 このように倫理は法に尽きるものではない。法と倫理は同レベルにあるが、両者の間には根本的な区別がなければならない。これは特に人権について重要な点である。
法と倫理との隔たりが大きいところでは、法も機能しない。人権が具体的に実現されるかどうかは、一般に責任ある人々の倫理的意志によるだけでなく、個人または数人の倫理的エネルギーによることが多い。国際法の基本原則である「条約は守られるべし」の実現でさえ、旧ユーゴスラビアの例がまたしても示したように、条約のパートナーの倫理的意志に決定的に依存する。真実性は---法によって試すことはできないが---たとえ法的に強制はされえなくとも、条約を締結する際の前提とされるべきではないだろうか? (Norbert Greinacherが言った)「道徳性はよいものであり、権利はさらによいものである」は単純な言い方である。なぜなら道徳や、道徳的気質、良心の義務が背後にない権利や法律など何の意味があるだろう? 別の言い方をすれば、法は道徳的基盤を必要とするのである! だから責任宣言は、法律、協定、法令のみによってより良い世界を創ることはできないと明言しているのである。実際、倫理がなければ法律は結局のところ立ち行かなくなる。だから人権宣言とならんで人間の責任宣言を打ち立てることは意味があり、必要なのである。前にも述べたように、これらの宣言は互いを制限するのではなく、支持しあうものなのである。
5.責任宣言の19条は、でたらめな混合物では決してない。専門家ならばすぐ認識できるように、宣言は人類の四つの基本的規範(殺すなかれ、盗むなかれ、うそをつくなかれ、性的不道徳を犯すなかれ)を私たちの時代に合わせて形を変えたものである。異なる信仰間のあらゆる差異にもかかわらず、これらはヨーガ学派の開祖パタンジャリ、バガバジータ、仏典、そしてもちろんヘブライ聖典、新約聖書、コーラン、そして実際に人類のすべての偉大な宗教的・倫理的伝統に見出すことができる。しかしここでは「文化的相対主義」は奨励されているのではなく、むしろ特定の文化的価値が普遍的方向づけを持つ倫理的枠組みに統合されることによって相対主義が克服されている。すでに見たように、これら人間の基本的責任には人権と同様に、人間の尊厳を承認するに際しての評価基準、中心、核があり、それは人権宣言の場合と同じく人間の責任宣言においても最初の文の真ん中に明記されている。そこから全ての人間を人間的に扱うという基本的な倫理規範が出てくる。これは黄金の法則によって具体的に示されたもので、この法則も権利ではなく責任を表明している。このように責任宣言は、諸機関に対するアピールであるとともに、一人一人の道徳的良心へのアピールであり、すべての行動においてその倫理的側面に心を配ることを特に呼びかけている。 私の最後の願いは、より広い議論に際して、権利と責任の間、そして自由の倫理と責任の倫理の間に間違った戦線や人為的な対立を生じさせるのではなく、このような新時代を画する宣言が普及した場合に出現するであろうさまざまな機会が理解されることである。なんと言っても、全ての大陸の政治家がこのような宣言文について賛同し、このような主張を普及させようというのは極めてまれなことなのである。そして何よりも私たちは倫理を怖れないようにしたい。倫理は正しく理解すれば、人を隷属せしめるのではなく、解放してくれる。倫理は私たちを真に人間らしくあらしめ、人間らしくあることをまっとうさせてくれるのである。 注
Cf. the contribution by J. Frühbauer in this volume. M. Gräfin Dönhoff, “Verantwörtung für das Ganze”, in E. Teufel (ed.), Was hält die moderne Gesellschaft zusammen?, Frankfurt 1996, 44. Or Thomas Assheuer, addressing the naively optimistic propagandists of a “second modernity” (Ulrich Beck); “To speak of a social and moral crisis is no longer the privilege of conservatives”. T. Assheuer, “Im Prinzip ohne Hoffnung. Die “zweite Moderne” als Formel: Wie Soziologen alte Fragen neue drapieren”, Die Zeit, 18 July 1997. |
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